第29回 良い弁護士の見分け方(その3)- 弁護士は普通の人であってはいけないのか
シリーズ「良い弁護士の見分け方」、今回はその3回目です。
今回のテーマには答えがありません。読者の皆様がそれぞれ、自分が弁護士を選ぶとしたらどんなヤツがいいか、という視点でお読みください。
ぼくは1987年にこの仕事を始めて以降、20年間森綜合法律事務所という事務所に所属していました。森綜合法律事務所は、2000年前半に濱田松本法律事務所を合併して、現在の森・濱田松本法律事務所となりましたが、今日の話は、合併前の森綜合法律事務所の話です。
当時の森綜合には、本当に優秀な弁護士が揃っていましたが、同時にエキセントリックな人達も多く所属していました。優秀な人というのは概してエキセントリックなものだよ、と仰る読者の方もおられるでしょう。そもそも人間なんて皆ある部分ではエキセントリックなものなのだ、というご意見の方もおられるでしょう。確かに人間など皆、ある部分ではエキセントリックなのかもしれませんし、だからこそ皆何かを我慢しながら暮らしているのかもしれません。しかし、ぼくがここで申し上げているエキセントリックかどうかというのは、そのような深遠な意味ではなく、単に普通の人かどうかという程度の意味であるとご理解ください。
今回なぜ「エキセントリックかどうか」というようなことを書いているかというと、若い頃のぼくに、とても印象深い思い出があるからです。ぼくが仕事を始めてすぐの頃、ある先輩弁護士から初めて声がかかり、一緒に仮処分事件をやりました。彼は、確実に一時代を作った非常に優秀な弁護士ですが、その仕事の進め方はとにかくエキセントリックで、念には念を入れ、膨大な時間をかけて総ての論点を徹底的に潰し、これでもか、というほど慎重に準備に準備を重ねて案件を進めていくタイプの弁護士でした。一緒に担当したのは、建物明渡しの断行の仮処分の申立事件だったと記憶しています(難しいことはともかくとして、明渡断行の仮処分というのは、めったに認められない、非常に難しい類型の事件です)。
彼と集中的に仕事をする機会に恵まれ、とても勉強になりましたが、その件は、それ以上に極めて印象深い事件でもありました。なぜかというと、その件では、結果が出ないうちに、我々は依頼者から解任されてしまったからです。我々の仕事ぶりが依頼者にとって不満だったわけでは決してありません。我々は依頼を受けてから1週間、まさに寝食を忘れ、毎晩ほぼ徹夜で仕事をしました。依頼者には、事務所近くのホテルのスイートルームに部屋を取ってもらい、毎晩12時過ぎに事務所に来てもらって、昼間の裁判官との面接(審尋と言います)の詳細を説明すると共に、その日の午後から夜にかけて起案した、翌日の審尋に備えて提出予定の書面の確認をしてもらい、明け方にまたホテルに戻ってもらう、そういうことを繰り返していました(依頼者がホテルに帰った後、議論の結果を書面に反映して完成させるともう朝になっており、そのまま裁判所に行って午後少し仮眠を取り、その後また翌日の審尋のために起案する、そういう毎日でした)。そして1週間ほど経って、漸く先が見えてきたある夜、依頼者のご夫婦(医者の夫婦でした)が遠慮気味にこう切り出したのです。「先生方、本当に一所懸命私たちのためにご尽力頂き、心から感謝しています。ですが、このままですと、私たちの身体がもちません。また仕事も滞っています。これまでの作業に対する費用はいくらでもお出しします。この件から手を引いてください。」
そして我々は解任され、その方々は別の弁護士に依頼をされました。
後日、ぼくとその先輩弁護士は、理由は憶えていませんが、一緒にタクシーに乗って帰宅しました。彼がぼくの家まで送ってくれたのですが、タクシーの中で彼がぼくに「ワタナベくんはどういう弁護士になりたいかね。」と訊きました。その案件の依頼者の言葉が頭に強く残っていたぼくは、躊躇なくこう答えました。「普通の常識人でありたいです。」彼は烈火のごとく怒ってこういいました。「ダメです。弁護士はエキセントリックでないといけません。」と。
ぼくは黙って彼が捲し立てる言葉を聞いていました。曰く、弁護士の仕事は普通の人間、常識人には到底できない仕事なのだ、世の中の常識に左右されない、真実を探求するエキセントリックさがなければ務まらないのだ、その結果、クライアントに受け入れてもらえなくても仕方ないのだ、と。
それが彼の言い分であり、彼の信念だったのでしょう。そしてまさに彼は、エキセントリックであるためにはどうしたらよいかを真剣に模索しているのではないかと思えるほど、少なくとも案件の進め方に関しては、妥協ということを完全に拒否していました。自分と同じように睡眠時間を削り、膨大な時間をかけてあらゆる論点を潰して案件に向き合うことを、一緒に仕事をする総ての若手弁護士に求め、時として同僚のみならず、依頼者にもそれを求めました。
そしてその結果、我々は解任されたのです。
この件は、ぼくのそれ以後の弁護士生活にとても大きな影響を与えました。
どういう意味で影響を与えたのかというと、この出来事があったおかげで、ぼくはいつも「弁護士はエキセントリックでなければいけないのか。普通の常識人は弁護士にはなれないのか。」ということを常に考えざるを得なくなったのです。
そして、その後ぼくの出した結論は、「弁護士は普通の人間でなければいけない」ということです。ちなみにここでいう「普通の人間」と「エキセントリックな人間」は二律背反の概念ではありません。エキセントリックでもいいのです。しかし同時に、普通の常識人は自分の弁護活動をどう観るか」という感覚を常に持ち合わせているという意味で普通の人間でなければならない、そういうことです。
このコラム第17回「虎に翼スペシャル」でも書きましたが、法律は常識の集積であり、そして常識の集積でなければなりません。なぜかと言えば、法律の名宛人である人たちにとっての常識に外れた内容を強制しても、その法律、その条項は、通用力を持たない(要するに人々が守らない、或いは守れない)からです。それを無理に強制しようとしても、それは所詮、法律を制定する権力の暴走と評価せざるを得ない、ぼくはそう考えます。そして、法律が常識の集積である以上、その法律の条文を解釈するについて、我々法律家に求められているのは、当該条文を、普通の人々の普通の常識に照らして解釈することであると思っています。
そして、この「法律家と常識」ということに関して、ぼくに本当の多くのことを教えてくれたのは、このコラム第14回「本物は普通で無駄がない」にも書いた、ぼくが若い頃仕事をしていたシカゴの法律事務所のチェアマンでありぼくの師匠でもあった大弁護士の言葉です。
日本に帰国してから彼と電話で話した時、彼から唐突に「ハジメ、きみは母上に毎日電話してるか?」と聞かれたことがあります。「いやー、とても毎日電話している時間はありません。」と答えると、彼はこういいました。「わかった。オマエがその歳になっても優秀な弁護士になれないのはそのせいだ。」
自分の母親に毎日電話するような、常に周りの人を大切にする普通の常識人でなければ、優秀な弁護士になどなれるはずがない、それが彼の教えでした。
彼は非常に優秀な、全米にその名前を轟かせたトライアルロイヤー(Trial Lawyer)でした。ご案内の通り、アメリカは陪審制を採用しているので、刑事事件だけでなく、民事事件においても、法律の素人である陪審員が事実認定を行います。その陪審員に向かって、この事件の本質がどこにあり、関係する法律は、何を目的とし、どんな行為を禁じ、当事者にどのようなことを求めているのか、そして、自分たちの依頼者がどれだけ誠実に法律を遵守してきたか、或いは遵守できなかったことにはどのような事情があるのか、等々を陪審員に分かりやすく説明し、説得するのがトライアルロイヤーの仕事です。難しい理屈をこねくり回しても、素人は理解もしないし、納得もしない。要するに素人の常識に訴えかけ、その納得を得られなければ、訴訟に勝つことはできないのです。その難しさを誰よりも知り尽くしている彼だからこそ、母親に毎日電話して母の言葉に耳を傾け、自分自身を振り返る、そういう普通の人間の部分がない限り、弁護士としては所詮二流、という発想になるのでしょう。ぼくはそう理解し、同時にこの言葉は、その後のぼくの弁護士という仕事に向き合うについての指針になりました(残念ながら今でも母には電話しない親不孝者ですが)。
企業法務弁護士である以上、ぼくの依頼者の多くは企業の法務部の方々であり、従って法律の素養も十分に持っておられ、しかも法務部の社内での役割は、他の部門から社内の法律問題の相談を受けて面談し、解決案を示して説得するというものです。その意味で、会社と法務部の関係は、我々外部の弁護士と依頼者との関係と全く変わりません。従って我々も企業の法務部の方々と向き合う時には、精緻で合理的な法理論の構築が最優先で求められますし、問題解決のための方策、社内説得のための論理構成などを協議させて頂く際も、立論の客観性や合理性を担保することに最も腐心します。そこには「常識的であること」という観点は殆ど無用のように見えます。
しかし、実はそうでもないのです。
大上段に申し上げると、現代の企業活動の基本はコンプライアンスにあり(コンプライアンス概念の変遷については、第19回「エクイティ(Equity)って何?」を参照)、コンプライアンスの目的は、企業統治を意味するガバナンス(Governance)を達成するための体制を構築することであり、そして、ガバナンスの目的は、単なる法令遵守に留まらず、それを前提とした上での健全な企業風土、企業倫理等の確立にあると認識されています。平たく言うと、現代の企業活動は、「健全な企業風土、企業倫理」を推進するものでなければならないのです。
そして、「健全な企業風土、企業倫理を確立する」とは、要するに、「誰から観てもこの企業は真っ当であると評価される経営をしろ」ということであり、「誰から観ても真っ当であると評価される」とは、結局のところ、「普通の人々の常識に照らしてみたときに真っ当であると評価される」ということに他なりません。
そして、そうだとすると、企業法務に関わる我々企業法務弁護士が、企業の法律問題の解決に関してアドバイスするときにも、常に「企業の在り方」という視点、すなわち「我々のアドバイスは、誰から観ても真っ当であると評価されるか」という視点を根底に持っていなければならないということになります。弁護士としての我々のアドバイスは、依頼者の利益に資するものであることがその基本になければなりませんが、「企業法務弁護士としての我々のアドバイスは、企業の利益に資するものになっているのか」という視点には、常にそのアドバイスが、企業コンプライアンス上是認されるものなのか、という視点が必要であり、それは今や単なる「法令遵守」だけではなく、そのアドバイスに従って企業が行動を起こした時に、その企業は真っ当であると評価されるのか、という視点を持たなければならないということです。そして「誰から観ても真っ当であると評価されるか」という視点を持つためには、健全な常識人であることが必要であることは当然のことです。
更に「健全な常識人であること」は、依頼者が企業である場合にのみ要求されるわけではありません。むしろ、依頼者が個人である場合も決定的に重要です。ぼく自身も、自分に何か問題が降りかかって弁護士に相談に行ったとき、その人に世間の常識が通用しないと分かれば、その人に依頼することはないでしょう。彼が提示する解決策がどんなに優れていても、基本的には、相手方も最終的に得心できる解決方法を提示してほしいと思いますし、依頼者であるぼくに対しても、普通にコミュニケーションの取れる普通の人であってほしいと思います。恐らく法律事務所の門を叩く個人の依頼者の方々は、皆そのように思われているのではないでしょうか。
更にこれからの時代、自分自身がAIを使うか使わないかに関わらず、我々の競合相手は確実にAIになっていきます。AIの能力がデータベースの数と量に依存する以上、AIが提供するアドバイスは特定論点に関わる回答のインプット数が多ければ多いほど精度が上がるはずなのですが、恐らくその過程では、誤った回答に加え、最大多数の人間にとって違和感を生じさせるものは落とされていくはずなのです。今後我々に求められるのは、AIのクオリティに対抗できるレベルでの論理性と常識性、なのかもしれません。
というわけで、ぼくは日々、「弁護士としては優秀な普通の人」でありたいと思いながら仕事をしています。
ただ、ここからは余談ですが、残念なことに、自分がどうありたいか、ということと、自分が人からどう思われているかという問題は全く別です。暫く前に元同僚と飲んでいて、「いやー、おめーみたいな変わり者に変わり者なんて言われたくないなー」と言ったところ、非常にビックリされて、「あーたが変わり者じゃなかったら、誰を変わり者っていうんだよ」と言われました、で、こちらも非常にビックリして、「えっ。俺って変わり者?」と聞き返したところ、更にビックリされて、「えっ。今まで気づいてなかった?あーたみたいな変わり者でめんどーなヤツ、そうそういないよ」と言われてしまいました。
驚愕しました。ぼくは変わり者で、しかも面倒くさいヤツみたいです。結局ぼくの師匠の言うように、良い弁護士にはなれないのかもしれません。普通の人として真っ当に生きる、これがぼくの人生の目標なんですが、所詮無理なのかもしれませんね。